なんとなくバットマン、ヒーロー像

ダークナイトリターンズ(1986)」をどう読み解くべきか、未だに私は答えを見出せない。
権力という後ろ盾とアメリカの良心という欺瞞を抱えながらしか生きられないスーパーマンとの対決こそ深みがあるものの、結局の所そこに描かれているのはアメリカ・ヒーローたるパワーゲームに他ならない。
勿論、彼の物語が生まれた背景も当然ある。フランク・ミラーは曖昧になっていたバットマン像を打ち砕き、方向を決定付けた。

※その後、YEAR ONE(1987)でトラウマ->バットマンを作り上げる。それは当然、映画第一作(1989)のティム・バートンだってしっかり踏襲している設定だ。
ちなみに、二代目ロビン、ジェイソン・トッドの死と同時進行し、そのオッズに多大なる影響を与えた「ダークナイト…」だが、その後のバットマンは己のトラウマだけでなく、ジェイソンのトラウマも背負った展開が目白押しとなる。ほとんど精神的SMだなぁ。

その時代であればこそ、この作品は衝撃も生んだだろう。
しかしそれもまたコミック・コードなんてシロモノが生まれ、生かされるアメリカでこそであり、コミック文化に恵まれた日本人にしてみれば別に目新しくもなんともないのだ。
日本において正義と力はむしろ大本営ではない「ジレンマ」が定説だからだ。

結局の所、バットマンが最後に選んだのはアウトローのパワーゲームを次世代へ受け継がせる事だけだ。
いかにも(ミラーの)バットマンらしいが、オチ的にはヒーロー(性・パワーゲーム)の肯定に終始してしまっている。
これじゃ、ネオコン政策と同じじゃないか。大統領とかスーパーマンの扱いなんてそれそのものだ。


パワーゲームに答えなんぞないんだと、流れるだけなんだと言ってしまえば、アメコミとして成り立たないのかもしれない。
それを描いたのがアレックス・ロスの「キングダム・カム」だ。
ロスはマーベルの「マーブルズ」では非ヒーローの立場から描き、DCではヒーロー側から描いた事となる。
同じく次世代を髣髴とさせる終わり方をしているが、こちらは不毛なまでの理想主義を描いている。自分たちの抜け殻のような最後のシーンの舞台は(バットマンはその場所を選んだ事をスーパーマンの皮肉だと解釈している)明るい話題に反して悲しいくらいだ。
「キングダム・カム」ではヒーロー達の立場は複雑で、引退組(スーパーマン)、隠密組(バットマン)、現役組(ナイトスター>代表か?)、更には復帰不可能っぽいマーシャン・マンハンターとか(かわいそうなり)。それが二極化し、ヒーローvsヒーロー(vs一般人)という図式と化していく。
こちらでも老ウェインは若手芸人(じゃねえって)を率いていく。
しかし、バットマンにスカウトがグリーンアローってさ…どっちも若手教育は最高だけど、率いる、って意味ではものすっごく疑問でねえの。この辺りって、カリスマと見るべきか、はたまた大いなる皮肉と読むべきか悩む。

パワーゲームはカオスを生む。
彼らの悩みや倫理観や信条や、時には信仰なんかを通り越して。
カオスは破壊と不安を生み、それに弱者は最後の手段を用いる選択を迫られる。
9.91じゃんかよ。
スーパーマンの赤い目を、アメリカは見てたはずでねえの。



ちなみにDK2は読む気にならなんだよ。


あ、ロスだの毛等の漫画だの興味ねぇよ、ケッ、ってお方にもナメゴンはオススメ(ガッチャマンは…ちょっと)
http://www.buildup.co.jp/showcase/tv/top_list/ultraman/detail.html

ロスさん家
http://www.alexrossart.com/