通知表をつけるのは一個人の価値観であるという事

久しぶりに面白いアンケート(のコメント(旧いわし))があった。

学生だった頃・・・あなたは礼儀や礼節をわきまえ、品格という物を持っていましたか?
http://q.hatena.ne.jp/1197222702

どうにも「嫌はてな」な雰囲気が漂っているコメントもあるが、そういう方はさておき、たかがアンケート、されどアンケート、というまっすぐな人がちゃんとはてなにはおるのだよ、というちょっと爽やかな気持ちになれるコメント群であります。

質問の曖昧さ、極端さが浮き彫りにされたという点もあるが、やはり品格だのという「道徳的観念」基準はあくまで個人の価値観でしかない、という事をしみじみ感じた。

自分は「これ、質問者さん、質問文書き間違えたんじゃねーの。こんなん完全にビジネストークだよ。おかしいよ」という気持ちもあってコメントをしたが、あくまで間違いではない、との事。
すなわち、質問者さんは先生や学生が「お仕事中よろしいでしょうか?」などという言い回しをする事を少なからず「良し」とし、それを「品格」の基準としているという事だ。
自分が学生時分そんな言い回しをしたか、というと完全にNOである。
自分は先生にフレンドリーな接し方をした事は(プライベート以外では)まずないし、学生時代に「学生とはこうあるべきである」というべき論を持って行動していた。
先生に声をかけるという行為は学生である自分が「行わなければならない事」であり、先生はそれを「受けなければならない事」であるという確固たる信念があったからだ。(無論、学業において必要な用事において、であり、それぞれの立場が逆の場合もある)
けれど、あくまでそれは「学生の立場」(教育を受ける当人)だからだ。そこに「自分は品格がある人間だからこう聞く(聞かない)」なんて理由付けは一切ない。
なにしろ、自分は先生に目上だ年上だと持ち上げて「評価」される事には興味がなかった。あくまで授業(専門課程)を教えてもらうのが目的で、不必要に謙る必要なんぞなかったからである。(そういう立場にもなかった)
ましてや先生や学校に品格なんぞ求めたりしなかった。

質問者さんの提示した「例(”お仕事中”)」に、こんな生徒や先生じゃ品格が〜などと言うのは、学生の自分ではなく、子供を預ける親の立場からの意見なのだ。
こんな子供に育てたくはないし(学生の本分としての自覚を持って言葉を選べ!と叱責するだろう。先生に失礼だと思う)こんな先生や学校に預けたくはない(あなたたちの「仕事」とは何ですか!と問いたい)…そういう親としての立場が、それぞれへの「品格」を求めてしまうのだと、はっと気がついた。

そして更にコメントを読んで気付かされた。

自分も、そして子供に求める品格も、己が品格を持っている、などと言う人物になんぞなりたくもないし、させたくもないのだ。

目上だから、元気に挨拶する?
目上なんぞ関係ない。どんな人でも、なんだったら、人でなくても、挨拶はすべきだ。不必要に暗くも、明るくもなくていいはずだ。そもそも元気ってなんだ。(マルシンハンバーグ否定世代…)
電車では目上の人に席を譲る?
小さい子にだって、譲ってやれ。そもそも、譲るもなにも、自分は一番最後、でいいじゃないか。

自分が目指す品格は、少なくともこの質問に対して「持っていない」と応えてこそ、得られる物なんだ。


自分の周りに「この人は品格があるなぁ(=自分はここまで完璧になれないなぁ)」という人が何人かいるが、その人達は絶対に「自分に品格があります」なんて、口が裂けても言わないだろう。
それが匿名のアンケートであろうとも、である。
対人関係においてのみそう応えるだけなら、それは欺瞞である。「目」のない所、対価のない所でも、そう応えるからこそ、その人に品格を感じるのだ。


が、それが果たして「品格」なのか?と言うと、一概にそうとも言えないと思う。
それは、日本人特有の「謙虚さ」「ストイックさ」だからだ。
己に品格があるなどと言う事は言わないし、そもそも思わない。品格を持つべきだ、という理念にそって行動し、絶対に「己がそうである」という完結には至らない(常に上を目指す)
そしてそういう姿勢を良しとするのは、いかにも日本人だ。
対して、己が善である、と言う絶対的信念を持ち、それを対外的にもアピールする(認め得ない人間は理念を遂行できない)とするのは、欧米的感覚である。(前者は不言実行型、後者は有言実行型)


自分が学生の時、そうした日本人的感覚は絶対的な「美徳」であり、「品格」の基本だった。
だが、それも昔々の事。

主観であると同時に、時代と共に変化する以上、世の言う所の「品格」が果たしてどこを向いているのか。
品格などという表現は、何の指針にも目標にもならないのかもしれない。